231 かの子さんとカオス(毎度追記あり)
講談社文芸文庫(色んな企画があり、おすすめ)から出ている岡本かの子 『食魔』。
副題に「岡本かの子食文学傑作選」とあり、かねてから読んでみたかった短編も多数おさめられているけれど、先に読んでみた年譜の方がおもしろくて、小説が読めずにいる。
読書日記のように、気になった部分を抜粋しておく(ごくごく一部に過ぎません。以下、かなづかいは昔のもの。数字は本当は漢数字)。
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1911年(明治44年) 22歳
・・・2月16日、かの子は高津村の実家で長男太郎を出産。
1913年(大正2年) 24歳
・・・8月23日、長女豊子を出産。茂雄との子といわれる(注:夫は一平)。
・・・10月、キン(妹)から茂雄と自分との関係で威嚇を受けたため「思いがけぬ刺激に襲はれ」、「産後の逆血」の発作を起こし、正気を失ったまま岡田病院へ入院。ジフテリアを併発して生死の境をさまよう。
1915年(大正4年) 26歳
1月2日、次男健二郎を出産。この子も茂雄の子といわれる。2月、茂雄が別の女性と恋文を交わし、かの子も他の男性と交わったため、茂雄との間が冷却する。
1917年(大正6年) 28歳
春、荒廃しきった精神の救いを宗教に求め、一平とともに麹町一番教会に植村正久を訪ね、聖書の講義を受け、「夕方になると(一家で)聖書を回し読みした」(岡本太郎対談)。しかし、かの子は救われずかえって苦しんだ。この頃、一平と生涯にわたり兄妹のような関係を結んで夫婦関係を断つことを約束。
1918年(大正7年) 29歳
・・・太郎が公立小学校へ入学するが「放りっぱなしの自然児」だったため、強圧的な教師に反発。
1920年(大正9年) 31歳
毎朝、歯、鼻、胃病の治療に通い、長唄、琴の稽古に励む。
1921年(大正10年) 32歳
・・・この頃から一平とともに、キリスト教から仏教への関心を深め、鶴見総持寺管長・新井石禅の講話を受ける。・・・「母は、禅にいわば神秘的に惹かれていた。親父が彼女をそのほうに引っ張っていったんだ。親父にすれば、かの子という大変むずかしい女性をしょい込んでいて・・・禅に救いを求めた」(岡本太郎対談)。
1923年(大正12年) 34歳
・・・鎌倉の平野屋で芥川龍之介と同宿。芥川の文才に異常な関心を抱くが、その病的な神経に疲弊する(のちに『鶴は病みき』としてまとめる)。
1924年(大正13年) 35歳
4月、歌題『桜』(139首)を<中央公論>に掲載。北原白秋の激賞を受け、中条百合子も賞賛し、かの子は小説より歌作のほうがよいと、歌作をすすめられたことを恨んだりする。
1929年(昭和4年) 40歳
・・・一平は翌年からロンドンで開催される軍縮会議に、朝日新聞特派員として漫画通信を送ることになり、かの子も同行。かの子、太郎と別れるのが辛く、画業修行のためとして美術学校を中退、同行を決める。12月2日、一平、かの子、太郎、新田亀三、恒松安夫の一行5人が、800人を超す盛大な見送りの中、東京駅を出発。神戸港で欧州航路船・箱根丸に乗船。
1930年(昭和5年) 41歳
(外遊中のこと)・・・英国ペンクラブの特別会員になり、英会話を隔日一時間学ぶ。5月1日、メーデーに参加、英国女性の職業、婦人運動に関心を持つ。
1932年(昭和7年) 43歳
・・・二年余の外遊を終える。
1933年(昭和8年) 44歳
・・・『百喩経』を川端康成に送り、<文学界>への掲載を依頼、「あなたのご教示どおり書記なおしても修業いたし度ぞんじます。どうしても私小説家になり度いんで御座いますの」という書簡をそえて、小説家として立ちたい決意を示す。
1939年(昭和14年)
・・・2月、『老妓抄』が13年下期の芥川賞候補となる。一平と新田の献身的な看病を受けるが、17日、病勢が急変し、帝国大学小石川分院に入院。意識不明に陥り、翌18日、午後1時30分、永眠。満49歳。防腐のため新田が注射を打ち続け、21日、密かにかの子の愛した武蔵野にある多磨霊園に、持仏の水晶観音像とともに白木の柩のまま埋葬。
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年譜には、他に、谷崎潤一郎、与謝野晶子、夏目漱石、菊池寛、小林秀雄、北大路魯山人等々が出てくる。
岡本かの子というと、「歌人」の印象が強かったが、小説に固執した人であったことがわかり、驚いた。また、子供といえば、岡本太郎のみの印象だったけれど、3人も産んでいたことに驚いた(豊子も健二郎も、里子に出された先で死亡している)。
岡本かの子と岡本一平の夫婦生活については、風変わりだとかよく言われるけれど、かの子が恋人を家に住まわせたり、恋人を含む一行で外遊に出たりしてもなお、一平はかの子を愛していたとすれば、かの子という人は、相当おもしろい女性だったのだろうなあと思う。
以下、しんみりするような、それぞれの随筆より・・・
かの子 『恋人にたべさせたい御料理』の冒頭。
<私にもし恋人があるとすれば、やはり芸術家の思索家でしょうよ。その人は、考え、かつ、夢を持ち詰めてるでしょう。のぼせがちで物覚が悪いように想像されるのよ。寒い木枯の音を聞き乍ら私の処へいらっしゃるかもしれないわ。私は、柔らかい温かいものでも喰べさして差し上げ度くなるでしょうよ。・・・>
モンスターみたいにエキセントリックでエネルギッシュなかの子さんだけれど、やはり女なんだなあと感じた。女のサガから逃れられない彼女を可愛らしく思った。
一方、一平の 『お惣菜』(昭和17年11月小学館刊 『かの子の記』)の最後。
<・・・巴里は料理の都といわれている。女史はそこで、上院脇のホワイヨ亭の、骨の髄入りの清汁スープを始め、大概な名料理店の名料理を味った。・・・
これをこなして喰べている女史の唇が、腕白小僧のように油っぽく光る。
女史眠り去って二年目、うららかな春に逢う。筍とぜんまいでも台所で煮て貰って、お惣菜式に、質実に女史を偲ぼうかな。一つは近頃とみに、少年の日の常套な食品が、なつかしみ返されても来たので。>
ひゃーっと驚くような関係や日々を経て、かの子を偲ぶ一平氏。
現代でさえ、女は結婚すると、恋することも学ぶことも放棄しなくちゃならないかのような、無言の圧力を感じるけれど、本来、自然に生きようとするのであれば、様々な欲求は結婚で遮られるものではないはず。年譜全体を通し、異端と言われがちなかの子が自然の人に思えてならなかった(注:私は不倫を容認するようなことをよく書いているけれど、奨励したいのではなく、ただただ「結婚」というシステムや慣例や常識みたいなものが、ワカランのです)。
好奇心と生命力。
男でも女でも年齢関係なしに、生きる活力を持ち続けることは重要だ。
かの子の年譜を読んで、その昔、これほどまでむき出しに生きた女がいたことがうれしかった。
母としてはどうだったか?といえば、いいも悪いもあるだろうけれど、太郎が納得していたのなら、他人がとやかく言うことではない。家族にも親子にも夫婦にも、いろんな形がある。
以下、『芸術新潮』 1996年5月号 『さよなら、岡本太郎』より(亡くなった年に出た特集で、大切に保管している)。
<・・・しかし、こんな母親を太郎は愛していた。変に媚びて優しいよりも、机に向かって微塵も動かない母の後ろ姿に、何か神聖なものを感じていたという。この母の姿が、後の「岡本太郎」の原点をつくったのかも知れない。・・・>
太郎さん自身の言葉でかの子という母親を肯定する文章も読んだことがあるけれど(本棚にあるはずだけど)、探せないのですみません。
かの子と太郎の関係を持ち出して、自分のことを正当化しようとしているわけではないが(笑)、かつて、確かに生きていたこの親子から感じることは多い。
余談になるけど、かの子の年譜から感じたわけのわからないエネルギーは、私にとっては、坂口安吾の『白痴』の書き出しを思い起こさせる。
<その家には人間と豚と犬と家鴨が住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食物も殆ど変っていやしない。物置のようなひん曲った建物があって、階下には主人夫婦、天井裏には母と娘が間借りしていて、この娘は相手の分らぬ子供を孕んでいる。>
この書き出しは、いつ読んでもシビれる。
なんでもあり。なんでもいい。
ただただみんな、生きている。
私はそういうカオス(秩序なき根源)がつくづく好きなのだと思う。
人間が偉いものだと思ってないから、もっとみんな、自然に生きられたらいいのになって思う。
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<追記1>上記『芸術新潮』の表紙にあった言葉
~岡本太郎が遺した全作品は、常識や秩序にいさましく挑みつづけた男の、世間への果し状ではなかったか~
表現するとは、つまりそういうことなのだろうね。
<追記2> このブログを読んで友達が送ってくれた、かの子の晩年の歌。
~たまゆらに散り咲く花の空しさやむなしきものぞ永遠にしありけれ~
小説もすごいけど、日本の伝統である歌はやはりすごい。
たった、これだけの文字数なのに、涙がこみ上げてくる。
自身も歌を詠む友達は、かの子の歌について感じるキーワードは「開放」とのこと。
それも自分勝手なものではなく・・・(そんな印象を共有できたことがうれしい)
深い。深いなあ。
人生は果てない。
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