青春ネタ

2011.07.28

 青い思い出

 Photo


 ログハウスの写真まとめる前に、ツイ友の津田大介さんの写真から拝借(以下、facebookに載せた内容)

 「AO入試」という言葉がまだ一般的でない頃、私もこの「全国自​己推薦入試」を受験して早稲田に入りました(私たちで3期目だっ​た。「おしん」の小林綾子が同様の入試で立命館に入り、石田ひか​りが亜細亜大学に入った頃。八木沼純子は同じ年の教育自己推、広​末涼子は8年下の教育自己推)。

 私が高校3年生の頃、部屋に貼っていたポスターと文面がほとんど​変わってなくて、その青臭さというか泥臭さに、少し笑いつつ、泣​けそうになってしまった。

 元々は文学部の指定校推薦に出そうと思っていたのに、私たちの年​で急に消えちゃって、一般入試の前にダメもとで挑戦した入試。

 文面通り、北海道から沖縄まで全国から受験生が集まっていて、緊​張したけど、楽しい入試だった。その後、プロ野球に行った人もオリンピックに出た人もいました。
 社学は男女ともユニークな人が多くて、大好きな学部でした。

 それにしても、このポスターの中の、デーモン小暮のかっこ内が(​悪魔)ってのに笑った!

 

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2011.07.12

 島根の話

 土曜日。自宅の電話に見慣れない着信番号。

 誰かと思ったら、島根のMさんだった。

 美術作家のアシスタント時代、一年間、島根県の大田市に住んだ。

 Mさんは、その時知り合った現在61歳の女性。

 会った瞬間から気が合って、島根を離れてからも時々お手紙のやりとりをしたり、ふと電話をくれたりする。

 Mさんには、私と同じ年の娘さんと、28歳の息子さん、22歳の娘ちゃんがいる。きょうだいの一番上と一番下の年の差は、17歳!!

 私が島根にいた時と、今との大きな違いは、石見銀山が世界遺産に登録されたこと。

 Mさんの独特のしゃべりを、そのまま再現できたらいいんだけど、割と標準語に近い大田弁で、「ほんに、新しいお店がいっぱいできて、ピザやら団子やら何やら太っちゃう」と、町の変化を語ってくれた(ちなみに、出雲は東北弁みたいなところがある)。

 Mさんが住んでいる、大田市大森町は、町並み保存地区に指定されていて、昔ながらの民家を改築してお店にしたり人々が暮らしていたり、それはそれは風情のある素敵な場所だった(それは今も)。

 また、メディアにも多く登場する、群言堂というショップ(ブランド)があり、その社長夫妻を中心に、文化の薫りがあふれる村となっていた。

 前も載せたことあるけど、こんな雰囲気。

 http://www.gungendo.co.jp/

 24歳の夏、東京から島根に移住を決めた時、過疎地の島根に何がある?と言われたりもしたけど、お世辞ではなく、豊かな暮らしがあった。

 私が暮らしていた頃の象徴は、「鄙家(ひなや)」という、築250年のかやぶき屋根のおうちだった。星空が美しい、山里のサロン。群言堂の計らいで広島から移築したという鄙家で、囲炉裏を囲んでみんなで語らい、イベントやコンサートも催された。町づくりの研究にやってくる研究者や大学生たちもいて、不便な田舎なのに常に多くの人の出入りがあった。

 島根での暮らしは、たった一年だったけど、本当にトリッキーというかエキセントリックだったというか・・・。

 美術の展覧会で、東京も何度か往復したので、東京の思い出と島根の思い出と入り混じっている。

 以下、ワケわからないと思うけど、思い出した断片(敢えて説明省きます)。

 全裸モデルの型取り、原宿の路上でパフォーマンスしていたら警察がやってきたこと(ゲイのヨハネス)、ホテルオークラの一室での深夜の展覧会、海辺に血の像を運んで溶けていく様を撮影(青と白と赤のコントラスト)、いつも手伝ってくれていたさわやかな男性(優秀快活なサラリーマン)が突然逮捕されたこと(新聞記事で名前を発見して手が震えた)。留置所にお弁当を持って行ったら、受けとれないと言われたこと(口封じのために毒がもられてる可能性があるので、差し入れは難しいと初めて知った)。私はいつも大勢の人をもてなす料理番だったこと(今より当時の方が料理に熱心だった)、大阪の展覧会がちょうど、サッカーのワールドカップ日本対アルゼンチン戦の夜で、路上駐車していたら駐禁切られたこと(岡田監督の実家の産婦人科も見た)、子宮内膜症の手術を島根医科大学病院で受けたこと(東京でも実家でもないところで、ひっそり手術したかった)、オーストラリアからの取材、ニュース23、NHK。嫌なことがあって、夜中、車を飛ばして海で泣いていたら、漁師のおじいさんに声をかけられ、おじいさんの奥さんのかつての浮気について告白されたこと(酒瓶が家にごろごろ転がっていて判明したらしい)、染織家の人からもらった真っ赤なショール(今も大切にしている)。初めて人の臨終の瞬間に立ち会ったこと。松江、出雲は旅したけど、結局石見銀山には一度も行かなかったこと。最後に見た日本海の海が、やけに青かったこと。まだまだまだまだ色々ある。

 その一年を少しずつ切り取って小説が書けそうだけど、書かないのは、その一年があまりに楽しくて、そして、苦しかったからだと思う。

 島根でしがみつくようにして書いていた小説は、のちに、群像新人賞で最終に残った。

 私の人生の中で、確実に濃い体験だった島根の暮らしを、Mさんとの電話で思い出した。あの時小学生だった娘ちゃんがもう22歳。Mさんの声を聞いていたら、泣けてきた。

 「島根は、福島原発に関しては遠くていいね」、と言ったら、「でもこっちにもあるからねえ」とMさんは言った。

 万が一愛知もヤバくなったら、西側に知り合いあんまりいないなーと思っていたところに、Mさんからの電話。そうか、私には島根で暮らした一年があった!と思った。

 ともかく、東京から愛知に戻る前に、ワンクッション、島根という田舎で過ごした体験はすごく大きい。

 大都市から離れた場所で、精神性高く暮らしている人たちにたくさん出会った。

 14年前の今頃だなあ。

 7月に引っ越したばかりの頃、鄙家で宴会があり、見上げた空は、満天の星だった。あの星空の感動は今でも覚えている。

 今調べたら、ちょうど当時の中国新聞の記事があった。

 この記事から3ヶ月後に、私は鄙家を訪れたことになる。

 http://www.chugoku-np.co.jp/Kanko/S205_97042801.html

 群言堂のHPより・・・(「鄙舎」と書くのかな。ともかく、こんな空間)

 http://www.gungendo.co.jp/hinaya/index.html

 最初はお客扱いだったけど、ここを去る頃はほとんど私もスタッフだった。最後の送別会も鄙舎でしていただいた。 

 青春は色濃いほどいいと思う。今も濃いけどね!

            

          

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2010.02.01

 パリのアネモネさん

          
 もうすぐ誕生日で、私は37歳になる。
 昔出会ったあの人やこの人と同じ年を迎える。
 ふと思い出して、旧ブログを検索した。
 「パリのアネモネさん」は出会った頃、確か36~37歳だった。
 アネモネさんみたいに素敵に年を重ねたいな、と思った。
 圧倒的に色々あった最近だけど、さて今の私はどうだろう?
 なーんてことを思いながら、旧ブログ(2005年12月)より転載します。


☆☆☆☆☆

         
 男の子2人の育児に追われていると、思い出す女性がいる。
 パリのアネモネさん(仮名:日本人)だ。
 アネモネさんは、フランスの血が4分の1入ったダンナさんの仕事の関係で2人の息子とともにパリと神戸を行き来していた。

 初めて会ったのは、仕事で出かけた現代美術の展覧会場(岡山県)にて。当時手伝っていた美術作家がフランスに留学していた時アネモネさんと知り合い、その縁で一家を招待していた。聞かされてはいたけれど、本当に目が離せないくらい美しく、魅力的な人だった。細くて気高くてクールでアンニュイで強気にハキハキとものを言い、だけど儚げでかわいくて・・・。小林麻美と桐島かれんを足して2で割ったような雰囲気だった。私より10歳年上で、6歳と3歳くらいの兄弟を連れていたけれど、「おばさん」という感じは全くしなかった。

 2回目に会ったのは、パリのアネモネさん宅にて。予定外の再会だった。
 母と妹と伯母と4人でパリを巡り、一人別れて南フランスの友人宅に移動しようとしたその日、急なストライキでTGVが動かなくなってしまった。いつ解除されるか分からない。貧乏旅行でお金がないので、パリに住む知人に宿を提供してもらおうとあちこち電話した。宿は簡単に見つかり、空いた時間にアネモネさんのおうちに遊びに行った(「泊めて」とはまだ言いづらい関係だったので)。
 アネモネさんのお宅はメトロの駅からほど近いペントハウスだった。エレベーターを最上階まで上がると、フロアー全体が子供がいるとは思えないシックな空間となっていた。再会が嬉しくて私がはしゃぐと、アネモネさんは、「なんでそんなに元気なの?」と目を丸くした(今なら分かる。男兄弟を抱えた一日の終わり頃、20代半ばの身軽なオンナのテンションにはついていけない・・)。
 話していくうちにアネモネさんは長野の田舎育ちで、私と根っこが似通った素朴な人だと分かった。都会的で攻撃的な印象の奥に、のどかさや純粋さを感じ取っていたので「思っていた通り!」と嬉しくなった。私は自分に近い空気を持った人には嗅覚で吸い寄せられる。加えて、自分にはない美を持った人にはめっぽう弱いのだ。
 夜になり、近所のアフリカ料理店に夕食に出かけることになった。国連で働いているというアネモネさんの友達も加わり、にぎやかな夜となった。
 店に移動する途中、アネモネさんはやたら速足だった。大人の私でも歩調を合わせるのがたいへんなくらい。後ろを見ると、子供たちが転びそうな勢いで必死に追いかけてくる。
 「ちょっと速くないですか?」と笑いながら言うと、
 「そうなのよ~、私、歩くのが異様に速いの」
 と言って、一向にスピードを緩める様子がない。
 子供たちも慣れているようで、パリの石畳の上をはしゃぎながら夢中で追いかけてくる。
 このママめちゃくちゃだー、と思いながらも、なんだか「いいな」と思った。
 その夜食べたクスクスはとってもおいしかった。
  

 アネモネさんは、フランスが似合うような優雅さも兼ね備えた女性なのに、「あまり好きじゃない」と言うところもまた好ましかった。パリに留学していた時、ひょんなことからダンナさんと知り合い、予定外に子供ができたため今(当時)に至ったらしい。
 ある時、メトロで隣り合わせた男性が手にピーナッツを載せて食べていた。ほっそりしたその手があんまりきれいでボーっと見つめていたら、「食べます?」と言われたのが二人の始まりだったそう。
 まだまだ勉強したい時だったので子供が小さい頃はダンナさんにも子供にも辛く当たってしまうことが多かったらしい。確かに傍目に見ても感情の起伏が激しく、周りはたいへんそうだなと思った(人のことは言えない)。でも、母親のどこか不完全な面を子供たちがかばっているようにも見え、子供ってたくましいな、頼もしいな、と思った。

 日本に戻ってしばらく経った頃、アネモネさんから手紙が届いた。


~私はとても相変わらずです。喧嘩も相変わらずしています。この一年はいつも以上に人とうまくいかなくて、なんだかとても疲れました。そんなこんなかどうか、もともとあるアレルギー性鼻炎がいつもよりひどく、それがきっかけで嗅覚が失われてしまい、一時はとても暗かったのですが、今はそれなりに受け入れられていると思います。ただ、例えばうんこをしていてもにおわないので、行動に実感が伴わなくて、実際の肉の厚み以上にものとの距離がある気がするのがとても不思議。~


 等々、書かれていた。その手紙は今も大切にしている。

 時は経って私も結婚し、初めての男の子を産んだ時、アネモネさんのことを思い出して手紙を書いた。けれど、宛先不明で戻ってきてしまった。
 自分が育児をうまくやれているかどうか不安になると、アネモネさんのことを思い出す。子供にとって、何がプラスかマイナスかなんて分からない。子供が自分より大きな人間になってくれたらそれでいいのかなって思ったりする。

 アネモネさんと会ったのはたった二回。時間にしたら5時間もない。でも忘れられない人だ。
 いつかどこかで再会できると、なぜか確信している。


 


             

                      

                     

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2009.08.29

316 人様の記憶

 逗子の妹の家に、妹とダンナさんにとっての大学時代のサークルの先輩ご家族が  遊びに来てくださった。その時ふと私の話が出たそうだ。

 先輩は妹に、

 「お姉さんって、体操のお姉さん?」

 と言ったそう。

 ???と思った妹がその真意を聞くと、

 「大学にお姉さんが遊びに来た時、○○(構内の広場)で、側転とかバク転とかしてたから、体操か新体操をやってる人かと思った」

 とのこと。

 妹も私も、まったく憶えがない。

 しかし妹もダンナさんも、「あの人ならやりかねません」と伝えたそう(笑)。

 記憶をひもといていくと、妹たちの陶芸サークルの作陶場へ陶芸をやらせてもらいに行ったことは確かにあった。

 そして、その頃の私は(というか中学時代からずっと)、バク転はできないけれど、側転や地転(「前方地上回転」や「腕立て前転」と呼ぶらしい・・・(助走をつけて)両手をついて逆立ちしてくるっと回転し、両足で立つやつ。バク転の反対)については、隙あらばやろうとしていた。

 実家の近くの野道では、犬の散歩をしながら側転や地転をふとやっていたけど、東京ではそんなわけにはいかず、でも、彼と歩く深夜の小道など、人通りがない場所や、平らな場所を見つけると、「ね?今、やってもいい?」とソワソワしていた憶えは確かにある。そして実際に、夜の東京の路上で何度か実行した。

 (今思うと、夜中「キスしてもいい?」ではなく「側転(地転)してもいい?」とは、つくづく変な女だったと思う)

 なので、妹の大学の広場で先輩が目撃したとしたら、きっと本当にやってしまったのだと思う。得意気にやることはなく、いちおう人目は気にしていたので、ひっそりだったはずだけど・・・。

 あの頃の私は、小学生の頃身につけた能力、というのが、消えていってないか心配で、側転・地転ばかりではなく、例えばクロールの息継ぎや、ピアノ(低レベルな話ですが目安としては『エリーゼのために』が弾けるかどうか)等々、時々試さずにはいられなかった。

 人気のない、平らな道を目の前にした時の、「今、どうしても、試したい!」という気持ちが、今回久々によみがえった。

 こんな風に、自分ではすっかり忘れてしまった場面を、誰かの記憶によって知らせてもらえることはとってもうれしい(もちろん赤面するような場面も多々だけど・・・)。

 O先輩、ありがとうございました!

 さすがに地転はやらなくなりましたが、側転は子供の前で<得意気に>よくやります(笑)。今やってみたら、息子たちが口を揃えて「うまい!」と言ってくれました。息子の声援を頼りに生きています。

 O先輩作の引き出物の大皿は、今も大切に使っております。刺身など映えて、家族でお気に入りの一皿です☆

 先輩の陶房のHPです。

 <窯八> http://www001.upp.so-net.ne.jp/kamahachi/  

                

                   

             

     

            

                 

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2009.06.12

278 デタラメな夏

            
 ゆずの『夏色』のイントロを聴くと、必ず思い出すごく個人的な光景がある。

 11年前の夏。
 場所は島根県・出雲。
 カーラジオから、『夏色』。
 ルームミラーには、後続の冷凍車。
 冷凍車を運転するのはSくん。
 弟と同い年で私より小さいくらいのSくんだけど、
 大きなトラックをヨイショっと運転して、
 やっぱり男だなあと感心。
 Sくんの好きな『夏色』。
 彼の車でも流れていたらいいのに・・・。

 その夏、私はある現代美術作家のアシスタントをしていた。
 展覧会が近づくと、彼の作品を支持している美大生たちが泊り込みで手伝いにきてくれた。
 その時つくっていた作品が、人間の氷像だったので、展覧会場に冷凍車(レンタカー)で運んでいた。
 Sくんは当時、嵯峨美術短大の学生だった(UAの母校だ!と思った)。
 Sくんが美術作家に送った年賀状で「ふるさと小包」が当たっていたので、滞在中にその景品を取り寄せ、みんなで食べた。
 確か鰹のたたきだったような気がする。
 当時私たちは、お坊さんがいなくなった空き寺に住んでいて(檀家に家賃を払い)、その台所から出てきた大皿に、鰹のたたきをわんさと盛り付けた。玉ねぎもシソも茗荷もたっぷりと・・・。

 Sくんとは不思議な体験を共有したことがある。
 ある夜中、本堂で木魚の音が響いた。ポクポクと規則的に。
 私はSくんの仕業だと思った。
 Sくんは、私の仕業だと思った。
 翌朝、木魚の音について話し合うと、誰の仕業でもなかった。
 では、あの音を鳴らしていたのは・・・。

 幽霊の存在をはっきりと意識したのは、後にも先にもあの時だけ。
 でも、ぜんぜんこわくなかった。
 楽しかった。
 デタラメだった。
 全体的にデタラメな夏だった。

 山陰地方において、中国人の密入国が頻繁に報道されていた時期、夜中に冷凍車を運転していた(上記とは別の展覧会)明らかに冷凍車関係の仕事っぽくない私たちのところに、刑事が尋問に来たことがあった(冷凍車の荷台に人を詰め込んで港から移動することがあるんだって)。
 眼光の鋭い刑事さんの誤解が解けた時、私たちはみんなで笑った。
 庭先の緑も、刑事さんにお出ししたお茶の湯飲みの柄も憶えている。

 島根で過ごした1年にも、いっぱいネタはあるけど、なかなか書く気にならない。
 でもそのうち、書いてみたいと思う。

      

☆☆☆☆

 車内で『夏色』を聴きながら近所のドラッグストアへ。
 買い求めたのは特売・198円のトイレットペーパーなどなどなど。

 <思えば、遠くへ来たもんだ>

 と、ため息混じりに思いつつ、実際にはふるさとの近くに戻ってきたわけで・・・。

 かっとんだ非凡と、誰もが行う平凡と、両方求めて、今ここにいる。

 家に戻ると、奨学金の払い込み用紙が届いていた。
 まだまだ借金ございます(笑)。

 あの夏も、この夏も、つながっている。

                     

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2008.07.17

127 心和む日本語のトーン

    
 庭の樫の木に毛虫がついているのを発見し、今年もこの時期が来たかと覚悟して、子供たちの出発後、朝から消毒。
 害虫駆除なんて、人間の傲慢だとちらりと思うけど、自分が死んだことすら気づかないようなイガイガの黄緑色の毛虫に、大切な樫の木の葉っぱをガジガジやられるなんて許せない。
 というわけで、タオルを頭に巻き、長袖長ズボン、ゴム手袋、マスク、さらにサングラスで防備し、「農薬」を1000倍に薄めて機械かついでシュワシュワする。人に見られたくない格好だが、仕方がない。
 終えてしまえば簡単なもので、木も私もスッキリした。
 その後、小説のつづき、メール10本、友達からいただいたさつま揚げの残りを大根と一緒に煮ておでんにする。
 とまあ、何が言いたいかと言うと、ゴチャゴチャした日はゴチャゴチャがつづくもので・・・
 長男の帰宅後、月曜日に引き続き、1年生3人が遊びに来て、ぎゃーぎゃー騒ぐ。途中、女の子とうちの息子がケンカになり、2人とも派手に泣く。1年生は、悪気はなくてもお互いに言葉が足りないためにケンカになることも多く、親が入らなくてはおさまらない場面もあるからなかなかたいへんなんです。
 さらに幼稚園から帰ってきた次男も素っ裸になって大騒ぎ。子供同士が調子に乗ると手に負えなくなる。
 そこに新たに、ピンポン♪
 いとこが、小学4年生の息子を連れて「アポなしで行きたいって言うからアポなしで来た」と、笑うしかないような展開。4年生も参加して泥遊び。
 いとこと話していると、電話がリリリーン♪前回書いた大阪のSさんから。
 久しぶりだと言うのに、「今、かくかくしかじかの状態で落ち着いて話せないからかけ直します」と切る。
 
 小一時間後・・・

 みんなが帰って、泥だらけの息子たちを強制的に風呂に放り込み、ようやくSさんに電話。
 電話に出たのは、ダンナさんのルイスさんだった。
 久しぶりの声!!!
 って、もともとそんなに話したことないけれど、ゆっくりとした温かい日本語を聞いているだけで泣けそうになった。朝からのゴチャゴチャが吹っ飛ぶ和やかなトーン。
 よみがえるよみがえるよみがえる記憶・・・。


                         ☆


 その昔、東京は井の頭公園で、アクセサリーを売っているような外国の方が集まるアパートがありました。 
 そのおうちに、Sさんとルイスさんのご縁でだったか、私も遊びに行くようになり、半年くらいだけど、忘れがたい出会いがありました。

 当時の私(11年前・24歳)はテレビの仕事を辞めて、自分の表現を探すのだと必死になっていて、荻窪の豪邸でお手伝いさんのバイト(朝食か夕食を作る仕事で、時給1500円)をしながら、井の頭公園近くのボロアパート(かろうじて風呂&トイレはあったけど、シャワーもクーラーもない部屋)で、拾ってきた扇風機に当たりながら小説(みたいなもの)を書いていた。
 上記の外国人の方々が集うアパートの主は、45歳の、超美人、超グラマーな女性で、かつてはケニアの駐在員(仕事は知らないけど)の奥様で、ケニアで複数のお手伝いさんがいるような豪邸に住んでいたのだが、離婚して、どういう経緯か知らないけど、外国人がたくさん住むアパートの大家さんをしていた。
 娘ちゃんが二人いて、高校1年生と小6だったと思う。二人ともケニアで10年くらい暮らしていたので、日本に迷い込んだ可愛らしい外国の女の子、という雰囲気があった。二人といると、ケニアの強い日差しや乾いた大地、象やキリンやライオンに加えてナイロビの大都会が背後に透けて見えるような気がした。
 45歳のママには30歳の恋人がいて、その恋人と娘ちゃんたちも仲良くしていた。
 そのママに頼まれ、私はしばらく高校1年生のお姉ちゃんの家庭教師をしていた。
 しかも、大の苦手の数学を!!!
 大嫌いな数学なのに(前も書いたけど、高校時代クラスでビリ)、「反抗期の娘が、エラそうな先生の言うことを聞けないから、友達感覚でわかる範囲でいいから」と言われ、引き受けてしまったのだ。苦手な中でも、数Ⅰはなんとなく分かったので、二次方程式とか、因数分解とかをがんばって教えていた。
 ここで学んだ教訓に、「『先生はできる』ということを、子供は当たり前として受けとめるが、『先生ができない』となると、子供に危機感が芽生え、一緒になんとか考えようとする」ということがある。
 私がデキの悪い先生だったために、その子と同志のような感覚が芽生え、一緒に数学をがんばった記憶がある。
 「げ、この宿題分からない!」と私が焦ると、それまでボンヤリしてた子が
 「え、どれどれ?こうじゃない?」
 と、身を乗り出す。こんな感じ(笑)。
 ちょっとしたバイト代もうれしかったけど、何よりママが作ってくれる無国籍の夕食が楽しみだった。
 その家にはハムスターがいて、小6の女の子(生粋のケニア育ち)が可愛がっていた。
 色んな人が出入りし、ギターの音色や色んな言葉が飛び交っていた。

 井の頭公園で布を敷いてアクセサリーを売ってるような方々と顔見知りだった一時期。
 フランス人の彼と世界中を旅していた日本人の女の子(ショートボブとインド綿のワンピースが似合う日に焼けた美女)。素敵なカップルだなあと思っていたのに、女の子が突然ぶっ倒れたことがあり、びっくりした。
 みんな、人生、色々あるよね、と思った。


                      ☆


 ルイスさんのやわらかな日本語に和み、よみがえった青春の記憶。
 何より、ルイスさんが元気でうれしかった。
 1歳くらいの時会った長女ちゃんはもうすぐ10歳。次女ちゃんも7歳だと言う。
 違う場所で、お互い確かに生きていた。
 しばしお話していたらSさんが帰宅。
 一家が時折訪れるスペイン語の教会が豊橋にあるらしく、しかも、場所を聞いてみると私の家からかなり近い(同じ校区内っぽい)。
 いやー、偶然やらご縁も、ここまで来ると、神がかっていて、じんわりと温かい気持ちに包まれる。
 ともかく、21日に会う予定。 
 Sさんとは、お互いの要所要所を知っている。
 お互い、それなりの大学も出たけど、あやしげな人生(笑)。
 不安定だった井の頭公園時代。
 みんな生きていたね。
 みんな生きているね。


    


             


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