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2010.03.25

 VIVA LA VIDA !!

                 
 ここにも何度か書かせていただいた助産師のSさんが、神奈川県へ引っ越すことになった。
 より良い職場を求めての選択と決断(一家の大黒柱ということもあり・・)。
 新しい勤務先をHPで見たら、とても家庭的で温かみのある助産院だった(Sさんが仕事に慣れ、告知しても良さそうだったらここにも載せます)。ホメオパシーや鍼灸、酵素風呂なども取り入れている妊産婦の味方という印象。

 お産というのは、女性と赤ちゃん(家族)にとって、本来とても大きなできごと。
 妊娠の経過を診てくれて、取り上げてくれる助産師さんや先生と、親子で一生つながってもいいくらいのできごとなのに、大きな病院のお産ではなかなかそうもいかない。

 私は、もともと子宮内膜症で市民病院へ通っていたので、そのまま市民病院での出産を選択したけど(当時は市内で助産院という選択肢がなく)、私が産んだ頃と比べると市民病院はたいへんな状況。
 周辺地域でお産をやめる医療機関が増えているため、難しいお産や緊急搬送などがいっぱい集まってしまう。
 そこで激務をこなしている医師や助産師、看護師はとても立派だけれど、その環境に迷いを感じてしまったら続けられなくなる。

 これ以上書くことは控えるけれど、Sさんが、ひとりひとりともっと向き合いたいと願って違う職場を求めたのは、彼女の感性や理念を知っている身としてはごく自然な流れだったし、彼女も私も当初から想定していた。

 豊橋滞在は、ほぼ半年。

 いったんは永住する覚悟でチリに渡った家族が、再び日本での生活を始めるにあたり、ひとつのステップとしての就職先と居住先を探すお手伝いができたことは良かったと思う。

 6月、一緒に探したがらんどうの部屋に、8月家具や荷物が積み込まれ、3月再びその部屋はがらんどうとなる。
 明日引越しという日に、お別れのひとときを過ごした。
 シュンシュンと湯気を立てているやかん、テーブルの上には食べかけのほうれん草の炒め物、別の部屋にはこたつも置かれている。
 その部屋が「生活」を失ってしまうさまを想像すると、切なくなった。

 引越しは2トントラックで。
 運転はSさん!!
 ダンナさんではなくSさんが運転すると聞いて、最初に爆笑してしまった。
 私もかつて美術の仕事時代、2トンの冷凍車の助手席に座って、島根→東京を移動していたので、その大きさと距離感はわかるつもり。

 いったいどこまで男前なんだろうSさんは。
 私より10歳年上です。上智出てます。英検1級で、英語もスペイン語もペラペラです。
 かつてはドキュメンタリー・ジャパンで硬派な番組つくってました。出会いはテレビ番組の制作会社で、彼女ディレクター、私AD。キューバの映画学校へ留学中の友達をSさんが取材していた偶然にびっくり!という始まりでした。

 出会いから15年目の今、Sさんは助産師で、ダンナさんはチリの出身。ミックスの娘ちゃん2人連れて、2トントラックに家具積んで移動。

 くらくらするような彼女の過去と現在。
 「書いてね!」って言われたけど、やっぱり書ききれないわ~~(笑)

 出会った時バリバリの河内弁だった娘ちゃんたちは、半年ですっかり三河弁。
 「○○だに~」とか
 「○○だら~」とか。
 娘ちゃんたちは豊橋から離れることを悲しんでくれて、心が痛みながらも、地元民としては、ひそかにうれしくもあった。
 引越しが重なっていることをSさんはもちろん申し訳なく思っているけれど、彼らは家族という単位で地球を旅しているようで、たくましく見えた。重要なのは、「生きていく」ということだろう。

 その他、印象的だった会話。

 「牧師さん(コロンビア人)のところは、夫婦とも目の色、黒なのに、子供3人のうち、2人はブルーなの」

 「ぼく(目は黒)のおばあちゃんは、髪がブロンドで、目がブルーだった。ぼくのきょうだいで一人、目が緑の子いた。お父さんジェラシーで、お母さんに『違う男の子だろ』って言った」

 初めてアメリカに行った時、出会ったブラジル人の女の子は褐色の肌に黒い髪、黒い目をしていた。アパートに遊びに行くと、出てきた弟が白い肌にブロンドの髪、ブルーの目をしていて驚いた。
 そんなことを思い出しながら、南米は大きな大陸で、ほんとうに混血の文化なんだって思った。
 日本は、なんて一辺倒のつまらない国なんだろうと思ってしまう。

 「地震は今も余震どころじゃない。みんな眠れなくてお薬飲んで寝てる」

 「日本からチリへ船便で70箱運んだ中には父や母の写真もあった。でもきっと今回の津波で・・・。それをいつ確かめに行けるかもわからない」

 時折交わされるスペイン語。ルイスさんのダンボールにはスペイン語の文字。
 テレビには、録画してあった志村けんのバカ殿様が出ている。
 笑う息子と娘ちゃんたち。
 ルイスも笑う。

 「志村けんのお笑いが、ラティーノのお笑いに一番近いんだって」

 コーヒーにミルクを入れてもらう時、Sさんが口にした「レチェ」という響き。
 スペイン語でミルクはレチェだそう。カフェ・オ・レの「レ」とのつながりを思いながら、ああ、私は、この人たちやこの空間から、もっともっと多くのことを学びたかった。と思った。

 Sさんに「いろいろ経てきて今の助産師というお仕事は、どうですか?」と質問したら、
 「その質問は核心をついているけど、今は仕事を覚えることに精一杯で考える余裕がない」
 「でも、テレビにしても、助産師にしても『感動』の近くにある仕事ですよね」
 「そうだね。私は社会に向けて発信したいんだよね。助産師の仕事を通していつかできたら・・・」
 みたいな話をした。

 農業やってる友達とも最近そんな話をしたけど、いかにも「現場」という仕事の人たちは忙しいし弁が立たなかったりで、本当はとても重要な職業の声が表に届かなかったりする。
 Sさんみたいな人こそが、医療界や出産にまつわるおかしなことを世に向けて発信して、世の中が変わっていけばいいのに、と思う。
 Sさんはとても能力の高い人だけれど、家族を抱え、余裕がないのもわかる。
 「いつか取材に行きますから(笑)」と言いつつ、Sさん自身が何らかの発言やアクションを起こしてくれる日を楽しみに待ちたい。
 いずれにしても、Sさんの人生自体、ホントおもしろい。

 思いのほか早いお別れとなってしまったけれど、Sさんに関しては、ここまで縁がつづいた以上、これからも途切れるはずがないと思っている。
 年も重ねたので、別れは辛いけど、つながる人とはつながるという確信があるからさみしくない。

 でも・・・

 離れがたい思いを断ち切ってのお別れに、家族みんなとハグして、ルイスさんに「Sさんをお願いしますね。彼女の人生、ジェットコースターね」と伝えた辺りからSさんが涙。
 私もSさんと抱き合いながら、涙があふれた。

 転職を決めた時、Sさんは電話で「チリから日本に来ていちばん辛かった時に、助けてくれてありがとう」と言ってくれた。お役に立ててうれしかった。
 思いがけない病気で入院した時、自分の病棟の真上の階でSさんが助産師として働いていることが不思議だしおもしろかった。

 なんというか、私は小説を書くよりも、日々の生活で起こるできごとがドラマチック過ぎて(うーむ。自分の感じやすさもあるけど、それとは別に偶然の連続で)、このブログに書くようなできごとこそが愛おしい。

 最後に、約束だったので、夫がSさんに向けて書いた手紙をここに記します。
 広告の裏に書いてあって、電話でSさんに読み上げたもの。


 <日本での生活の再開にあたり、少しでもお役に立てたことを嬉しく思います。
   早く生活を軌道に乗せていただけるようお祈りします。
   また、豊橋が、第何番目かの心の故郷であれば何よりです。
   日本の中の拠点の一つとして、また、いつでもお越しください。
   家族一同 お待ちしております。>


 これを読み上げた時、電話口でSさんは泣いていた。
 私も、私に対してふだん冷酷な夫が、本当はやさしい人であること、特に困った人に対してはやさしさを発揮することを思い出した、というか、知ってると思った。


 生きてる、生きてる私たち。
 つづいていく、愛しい家族、生活、愛しい人生。
 VIVA LA VIDA!!! 
 また会って抱きしめ合おう。


    
 ☆蛇足ですが、Sさんの娘ちゃんたちが通った小学校で唯一知っている女の子が息子の柔道にいました。
 チリから豊橋に来る前、長女ちゃんがその子と同じ学年にあたるとわかった時点で、ここまで縁が続いたら、ぜったい同じクラスになるだろうなと思った。
 最後の最後で確認したら(「○○ちゃん知ってる?」ってのを聞く機会はこの先もあると思って暢気に構えていた)、やっぱり4クラスある中で同じクラスだった。
 ここまで来ると「予知?」って思う瞬間もあるよ。


              

            



 

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