2009.07.11

293 守られているという実感

 今、旅に出ている人が、置き土産のように教えてくれたマンガ、『聖☆おにいさん』。

 一昨日アマゾンで注文し今日届いた。それを読み、ゆったりした気持ちで笑っている。  

 http://morningmanga.com/lineup/25

 このマンガはもう、設定の勝利。どう転がしても、可笑しい。作者が1984年生まれということにもびっくり(もうそういう年頃の人たちが、多くの読者をつかんでるんだなあと・・・)。

 そして、たまたま今日、友達のミクシィ日記を見たら、その友達(Cちゃん)も同じタイミングで、『聖☆おにいさん』を読んでゲラゲラ笑っていた。

 Cちゃんとは、ほんっとうにほんっとうにシンクロすることが多く、離れて暮らしているのに、同じタイミングで同じ何かに触れていることが多い。

 はははと笑いながら涙が出てくる。

 存在だけで感謝したくなる聖なる友達。Cちゃん、いつもありがとう。

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 このところ触れさせてもらってきた、チリから一時帰国&就職活動中のSさん。このたび、豊橋の病院に採用が決まり(東京やら大阪やら巡ったうえで豊橋に決定かな)、現在家探し。昨日泊まりに来て、明日は一緒に物件を見に行く。

 今日のSさんは、市内に住む牧師さんのおうちに泊まっている。

 その牧師さんはコロンビアの出身で、派遣されて豊橋に住んでいるそう。

 そして、この地域(主に東海地域)で困っているスペイン語圏出身の方々の支えになっている。

 詳しいことはわからないけれど、牧師さんの生活は保障されていて、人々を助けることが牧師さんのお仕事らしい。

 なんというか、そういう存在がいてくれることって、本当に救われるよなあ。

 現在の日本に欠けている仕組みだったり、精神の支えが、世界のあちこちではちゃんと機能していることに素晴らしさを感じると同時に、日本人の生き難さについて考えてしまう。

 私は仏教の曹洞宗の家で生まれ育ち、と言っても、多くの日本の家庭のように、常に信心深く信仰しているわけではなかったけど、ただ、家に当たり前のように仏壇と神棚があるというのは、大きかったと思う。

 仏様や神様にお参りするのが当たり前の生活(もっと言えば、アニミズムというか、自然が近かったので、木や山や海のことも敬っていた)。

 今住んでいる家には、神棚も仏壇のスペースもつくってあるけれど、新家なので仏壇はまだない。

 なかなか難しいことだけど、子供たちも、なにか見えない大きな力に対する「感謝」や「祈り」の習慣を身につけてほしいなあ。 

 それにしても、豊橋に縁もゆかりもなかったSさんが、豊橋で働き始める偶然に驚く(というかもう、偶然が多過ぎて驚かずムフフと受けとめるようになったけど、冷静に振り返ると、東京のテレビ時代に出会ったSさんがチリ人のダンナさんと結婚し、今、助産師として豊橋にいることが不思議でならない)。それも私が子宮内膜症の頃から世話になり、息子たちを産んだ病院で。それなりに広い豊橋において、Sさん一家が大阪在住の頃からお世話になっていた牧師さんの家が私たちと同じ校区というのもすごい。

 前回牧師さんのおうちにお送りした時、娘ちゃん二人を連れた牧師さんにお会いした。

 見るからにやさしそうなお方だった。

 素朴にも見えたその方が、スペイン語でキリスト教について語る時、後光が差すほど素晴らしいんだって。

 毎度くどいけど、私は、「偶然は神様からのプレゼント」と思っている。

 数々の偶然に出会うと、「守られている実感」を得られ、うれしくなる。

 このよろこびを、表現という形にして世の中におかえししたい、と思いつつ、なかなか本という形にはならず、ブログを重ねてることが情けない気もするけれど、生活そのものが毎日本当におもしろくて、ここに書きたいことが増えてしまう。

 ちゃんと生活することは、それだけで十分たいへんなことであり、生活が満たされていれば他に表現することなどなくなるような気もしちゃうけど、ちゃんと生活してない人の表現がいっぱい増えているのを見ると、ちゃんとした生活の声を書かなくちゃという使命感に燃えるのも確か。ちゃんとって、表現って、生活って何?とは思いつつ。

 ま、ぼちぼちまいります(笑)。

         

              

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2009.07.10

292 友情

 ☆昨日、今日と急にアクセス数が増え、いったい何ごと?と思ったら、NHKの『クローズアップ現代』で藤沢秀行さんについて放送されたらしく、その検索でお客様が増えていました(『273 強烈な努力』参照)。そんなわけで、なんだか落ち着かず、七夕頃に書いたものを遅れてUPします。 

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 前々回の末尾に書いた、七夕に空を見上げて一緒に泣いた友達(Kちゃん)に、とある件でメールした。

 その返事の中にあった・・・

 「M(←私のこと)とは久々なのにいつも会って遊んでるような感覚がいつもあるんだよねっ。久々ぢゃぁないっていうかさぁ。でもいつ会ったかなぁって考えると一年以上会ってなかったりするんだよねッ。」

 とあったので、

 「Kちゃん、それはねぇ~、私たちの心が奥底でつながっているからだよ!
 それが友情ってもんだよ!!」

 と書いておいた(まあ、それまでの内容が人と人との関係性についてだったこともあり・・・)。

 彼女との思い出は、小学校時代の水泳(課外活動)の練習にさかのぼる。

 私たちは自由形リレーのチームメンバーで(私がスタートで彼女がアンカー)、練習の合間に当時流行っていたドラマ、『不良少女と呼ばれて』の物まねをしていた。

 彼女がショーコでチェーンやカミソリを振り回し、私がアサオでバイクにまたがる役(わかる人だけわかって。「ショーコ、乗れ!」ってやつです:笑)。

 中学の時には、休日、禁止されている二人乗りで、バッチリ学校の前を横切ってしまい(バイクじゃなくて自転車です)、翌日、担任の鬼教師に一緒に殴られた。

 殴られることはよくあったが、私は他にも体罰教師二人に特別に呼び出され、「なぜ同じくらいの成績の友達と遊ばないのだ」と延々と説教されたことがあった。私は、こいつらアホだと思い、「私(の素行)が悪いのは私のせいであって、友達のせいではない。友達とは絶対に別れない」と涙を流しながら訴えた(「大人たちを絶対見返してやる!」ってのはこういう瞬間に芽生えた)。

 Kちゃんと私は、土曜の部活の時、お互いの弁当について情報を交換し合った。

 お互い家が自営業で忙しく、弁当を作らざるを得ず、Kちゃんが我が家のから揚げの味付けを褒めてくれた時は本当に嬉しかった。

 高校受験の前、Kちゃんが私に英語のわからないところについて真剣に聞いてきた。その時、私は彼女から信頼されていると思った。それもたまらなく嬉しかった。

 成人式で帰省してきた時、Kちゃんは入院中だった。

 初めての子を帝王切開で産むために。

 お見舞いに行って見た赤ちゃんは、頭が長かった。新生児って、かわいいというよりは生々しいんだなと「現実」を教えてもらった。

 Kちゃんはベッドに横になりながら「みんなは振袖なのに私だけ・・」と嘆き(ちなみに私は振袖は着なかったが)、傷の痛みのため涙を流していた。しんみりした空気の中、Kちゃんが私に、「東京で彼氏できた?」と聞いてきた。「できたよ」と答えると彼女は、興味津々の目(涙目)で、「Hした?」と尋ねた。私だけではなく、一緒にいた友達にも キッチリ同じ質問をした。

 おいおい、母親になったというのに、最初の関心がそれかよ?と爆笑だった。

 子宮の病気になり、会社を辞め、おまけに失恋してどん底だった23歳の夏、ふるさとに帰省してきた私をKちゃんは温かく迎えてくれた(久しぶりに会う同級生たちを何人か集めてくれていた)。一時は捨てる覚悟で飛び出したふるさとなのに、私には確かに帰る場所があるということに感動し、涙が出た。この恩は一生忘れないと思った。

 その後の変遷も、お互い確かめ合いながら今がある。

 私が本を出した時、彼女は手紙をくれ、私が息子を産んだ時、彼女はお祝いに大きな鯛の姿造りを持ってきてくれた(ご実家がお魚屋さんなのです)。

 彼女は「母」に関して、大先輩である。私よりシャバを知っている。

 こんな風にして、友情は続いていくんだな。

 これからも、様々な友と、一緒に年を重ねていくことを楽しみにしています。

              

   

                    

                             

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2009.07.08

291 雨の朝の口笛

 小雨の朝、傘をさして、次男と二人、バスを待つ。

 道の向こう側から、自転車に乗ったおじいさんが走ってきた。

 少し煤けたように見える顔は日に焼けていて、オレンジ色。

 ハンドルの片手には、アルミ缶がいっぱい入った袋。

 もう片方には、なぜだか洒落たバッグ。

 裾の短い黒いズボンをはいて、ゆっくりと通り過ぎる。

 私は軽く会釈した。

 私たちの姿を視界に入れた頃から吹き始めたおじいさんの口笛。

 去っていく後ろ姿。

 緑の小道に口笛の音色が響く。

 耳を澄ませてみるとそれは、この季節にとても似合う歌だった。

   あめあめ ふれふれ かあさんが

   じゃのめで おむかえ うれしいな

   ぴっちぴっち ちゃっぷちゃっぷ

   らんらんらん

 おじいさんが、きっと私たちの姿を見て吹いてくれた口笛。

 小道に響いた音色は、とてもとても美しかった。

 あおがとてもきれいな紫陽花や

 澄んだ星空、輝く月のように

 とてもとてもきれいな音だった。

 おじいさんは無意識だっただろうけれど、

 おじいさんの少年の頃を思い、泣けそうになる。

 ありがとう、おじいさん。

 あなたも、私たちも、今日もよい一日を。

          

                  

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2009.07.07

290 息子の体

 眠りぎわ

 息子の体を マッサージしていると

 自ずと 涙がこみ上げてくる

 足には 確かな質量があり

 筋肉が ついている

 やわらかくて ハンバーグのたねみたいだった手も

 今では 「手」 らしくなった

 この手足で 彼なりの

  今日いちにち を

 がんばったんだなあと 想像する

 かつて息子は 私と同じ体だった

 手も足も 私の体が こしらえた

 今はもう 確かに 別々の体

            別々の人生

 私の体は老いてゆき

 息子の体は 成長してゆく

 にょきにょきと 伸びていく 息子の体

 不思議としか 言いようがない

 ありがたいとしか 言いようもない

 

        

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 全国のシンケンジャーファンの子供たちを持つお母様☆

 なにこのセンス? 

 おいおい、これじゃまるで外国にある「間違った日本料理屋」のディスプレイではないか!

 まさか寿司だなんて! 烏賊って!

・・・と思いながらも色々と付き合わざるを得ないお気持ち、お察しします(笑)。

 今日は幼稚園の「七夕お楽しみ会」だったのですが、次男の短冊のお願い事は「しんけんごーるどになりたいです」と「えびおりがみがほしい」でした。長男の年少時の「しょうぼうしゃになりたい」もどうかと思ったけど、もう少し枠を飛び出して欲しかったです(笑)。

 以下、最近発見した映像です。

 このシロウト様(それともプロモーションの一環なのか?)の編集の熱意には、思わず拍手しちゃいました(最後の決めポーズもご覧ください)。

 シンケンジャーなんて知らないという方も、今どきのおもちゃの巧みさ(つくりも、親に金を出させる仕組みも)をご覧くださいませ。

 ☆音出ます。主題歌です♪

 http://www.youtube.com/watch?v=GO8TNBRijYA

 

☆七夕のお天気が危ういと、友達と空を眺めて「一年に一度なのにね・・・」としんみり涙した中2の7月7日を思い出す。その友達の子はもう高校生。

          

        

        

          

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2009.07.04

289 「丸の内サディスティック」

 ○姿勢を正しくすること

 ○自分に自信と誇りを持つこと

 ○今に感謝すること

 ○人を愛すること

 ○使命感を持って生きること

 ○堕落すること

 ○美しく生きること

 これらすべてを教えてもらったわけではないが、彼女(椎名林檎ちゃん)を見ていると、どうしようもなく揺さぶられる。

 『丸の内サディスティック』

 色んなヴァージョンがある中で、いちばん好きなもの(音出ます)。

 http://www.youtube.com/watch?v=mXW5JtEztWc&NR=1

 彼女の息子くんとうちの長男は、生まれ年は違えど同学年に当たる。2005年と言えば、子供が4歳の頃だったんだなあと思ってみたりする。変容していくバンド、進化していく彼女に関し、過去の映像を紹介するのは申し訳ない気持ちだけど、たまたま行き当たったこの映像を一日一度は観ている。なぜだか涙が出てくるし、勇気が湧いてくる。

 林檎ちゃんのパフォーマンスもよいけれど、ヒイズミさん?のピアノも素晴らしい。

 ヒイズミ氏の脱退後、東京事変の鍵盤を担当している伊澤さんのピアノもすごい。「あっぱ」で虜になった(りえちゃんのインストアライヴ行けてる人うらやましい)。もともと楽器の中ではピアノの音がいちばん好きだけど、「常軌を逸した」演奏をする人にどうしようもなく惹かれる。

 NHKの「SONGS」で、二週続けて椎名林檎が特集された。本人のナレーションによる番組進行で、見ごたえのあるものだった。

 デビュー時の『無罪モラトリアム』ですごい!と思いながらも、『罪と罰』と『ギブス』が同時リリースされた頃は、なにやら痛々しさを感じてしまい、入り込んで聴くことができなかった(その年の妊娠~出産は、彼女がインタビューで使っていた言葉「ケモノとしてのよろこびも得て」(←厳密に言えば妊娠・出産に関して使ったのではないです)からすると納得だし共感する)。

 「SONGS」で歌われた『罪と罰』は、本当に素晴らしかった。心が震え、涙が出た。 前述のヒイズミ氏がキーボードとアレンジャーとして参加しているのもよかった。

    不穏な悲鳴を愛さないで

    未来など見ないで

    確信出来る 現在(いま)だけ 重ねて

    あたしの 名前をちゃんと呼んで 

    身体を触って

    必要なのは 是だけ 認めて

 この部分だけで、小説が一本生まれそう。

 番組での彼女は、狂おしさを演出する余裕を持っていた。現実に狂おしい人が狂おしく歌うと痛いけれど、狂おしさを知った上でそれを演じられる度量を持った人は無敵だ。

 ケモノとしてのよろこびも得て、安定したのだろうか(加えて、東京事変の亀田さんのいかにも平和な笑顔にいつも和むのだけど、プロフィールを見たら早稲田の出身でうれしかった・・・音楽や演劇に関しては独特の空気を持つ大学なんです)。

 今の彼女は成熟しているし、圧倒的だと思う。

 日常は慎ましく平凡で、表現活動においては狂おしく切実でありたいなーとあらためて思う今日この頃。

    

 ☆前回の内容は、多くの方に共有していただきたい問題だと思っているけど(教育関係者と語りました)、長いことトップページに置いておくのは抵抗があるので、更新させてもらいました。

                      

                   

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2009.07.02

288 知らなくても済んだこと

 久しぶりに、ここで頭をまとめずにはいられない衝動に駆られ、子供を寝かしつけた後、パソコンに向かっている。今私にあるのは怒りと悲しみ・・・

 まずはこの記事を読んでください。「ケニア人留学生失跡」に関して、中日新聞より。

 http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2009070202000255.html

 やはりこういう事態が起こってしまったか、という気持ち。

 今年の正月、実家で恒例の箱根駅伝を観ながら、留学生について家族で話した。私が「形を変えた人身売買ではないか」と言ったら、夫が賛同した。夫とは極論めいた話(私の中でのタカ派的側面)になると賛同することが多い。対して、いかにもハト派の母や妹は「留学生本人や家族がそれを望み、暮らしも良くなるのならいいのではないか」と言った。母や妹の意見はもっともだが、私がモヤモヤしてしまったのは、走ることが速いこと=すぐれたこと、という価値観(日本の商業主義に付随するもの)を、ケニアの人たちの生活に持ち込むこと自体が気に入らないと思ったから。

 知らなくても済んだことをムリヤリに知らされてしまうことは、たとえその人たちの暮らしが豊かになったとしても、何か決定的なものを失わせてしまう結果になるのではないか。

 一面的な価値観を高圧的に押し付けるような日本の傲慢さ、さらには、それが傲慢だとすら気づかない人たちに対し、やるせない憤りを覚える。

 問題となっている留学生については、テレビで姿を観たことがある。

 昨年全国優勝した豊川高校は、私が住んでいる市の隣の市にあり、中学時代から存在を知っていたような地元の名選手も活躍している(その活躍は素晴らしいことだ)。

 優勝時の、京都の陸上競技場でのインタビューで、この留学生はマイクを向けられても日本語がうまく話せなかった。その姿を痛々しく思っていた。

 野生動物のように彼女が走って逃げたとしても、日本は彼女にとって外国である。

 今、どこで何をしているのか、とても心配。

 目の前で去っていく彼女を、なぜ止めることができなかったのか。

 未成年の少女を放り出してしまうこと(退学処分にしても、車に乗らず逃げ出したことにしても、学校から去っていったことにしても)が、どれほど危険なことか、なぜ教育に携わる者にわからないのか。わかっていたとして、責任をなぜとれなかったのか(なんとか保護して、責任を果たして欲しい)。

 多感な時期、ケニアから連れてこられ、まったく異なる日本の社会や学校に放り込まれ、走って結果を出すことでしか評価を得られないような状況。

 いくら学校側が精一杯フォローしていたとしても限界はある。

 彼女の本当の孤独を理解することは誰にもできない。

 このまま祖国に戻るわけにはいかない、と思い走って逃げ出した彼女の深い悲しみ。

 頭や心を整理することもまだ難しい年頃だと思う。

 彼女はまだ子供なのだ。

 彼女を守ってやるべき大人の中に、自分も含まれていたような気がしてならない。

 問題を感じながらも惰性に流されていた陸上関係者も目を覚ますべきだと思う。

 熱狂の前に、自分たちの傲慢さを恥じなければならない。

 結果がすべてなのではない。結果を生む前に、生きながらにして損なわせてしまうことがあることを知らなければならない。相手は未成年なのだから。いかようにも変わりうるやわらかい時期、表向き幸せなことが、真に幸せとは限らないのだ。

 異国の人間の人生を踏みにじるということの重みを、この問題に限らず、日本は真摯に考えるべきだと思う。

            

               

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2009.07.01

287 びっくりはへび

          
 家族で食事中、次男が泣き入り引きつけ(憤怒けいれん)という乳幼児期特有の引きつけを50回以上起こしていた時期の話になり(←珍しいことで、ホトホトまいっていた)、
 「むーくんは、50回以上も引きつけしてびっくりだったよ」と伝えると、
 「オレが?50回も?」
 と、当の本人は、うれしそうに目を丸くした。
 「でもね、むーくんの時は、まーくんで1回見たことがあったからまだ平気だったけど、まーくんが初めて引きつけた時は本当にびっくりした。イトーヨーカドーの遊び場で、大きい子に後ろから乗られて、びっくりしたまーくんが泣き過ぎて息止めて引きつけちゃってお母さん何が起こったのかわからなくて、裸足のまま、まーくん抱えてレジのおばさんのところに飛んで行って、『救急車呼んでください!』って言ったんだよ。本当にあの時はびっくりした。人生でいちばんびっくりした」
 と話したら、「人生でいちばんびっくりした」という言葉に反応した長男が、
 「じいじが首に蛇巻いた時より?」
 と言うので、なんじゃその記憶?と思った。

 私の頭に浮かんだのは、マレーシアだったかを旅行中、ニシキヘビを首に巻いた満面の笑みのじいじの写真(王冠もかぶっていた気がする・・・)。

 しかし、長男の記憶は違っていた。
 「じいじのおうちで、蛇が出た時、じいじが捕まえて首に巻いたじゃん」

 あーあー、思い出した。

 3年前の夏の日(長男4歳&次男2歳)、実家の庭の隅(家の前の道につながる緑が多いところ)に長~い青大将がいた。
 私の父は、蛇がまったく平気で、近くにいた息子たちに見せようとひょいと蛇をつかんだ。蛇は大慌てで頭をレンガの陰に突っ込み、父は蛇のしっぽをつかんで、びよーんと引っ張った。蛇もがんばってレンガの陰にしがみつき(どういう状態だったかは???)、父と蛇の力比べ。それはそれは長い蛇がびよーんとまっすぐに伸びたのだった。

 その後、捕まえた蛇を、父はやさしくなでなでし(本当にお友達のようだった)、パフォーマンスとして自分の首に巻いた。
 蛇は袋状のものに入れると落ち着くらしく(父の弁)、作業ズボンの大きなポケットにそっと入れて、父はどこかに逃がしに行った。

 あの夏の日の蛇のことを、息子が憶えていたなんて・・・いやしかし、あのキョーレツな光景は忘れることがないか(私にとっては、びよーんのほうがキョーレツだった)。一緒に見ていたはずの次男は忘れてしまったけど、たぶん、長男には残りつづけると思う。

 <おじいちゃんが首に蛇を巻いた>

 という記憶が残る子供は、今の日本にはそんなにいないだろうなあ(笑)。


        
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 10年前に失くしたと思っていた『パルプフィクション』と『トレインスポッティング』のCDが見つかり感激。それも、何度も確認したはずの、『トレインスポッティング』のケースの中に2枚とも入っていた。
 何度も開けてガッカリした記憶があるケースの中から出てきたCDは、「現れた」とか「生まれた」という感じで、桃をパカッと割ったら桃太郎、竹をパカッと割ったらかぐや姫みたいな驚きだった。
 そういう不思議なことって、たまにありますよね?(私がボケてるだけかなあ・・・)

   
         


          


               


             


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2009.06.29

286 しゃぼん

 28日。愛知勤労会館へ、舞台 『LOVE 30』を観に行って来ました。

  http://www.parco-play.com/web/page/information/love30_03/

 名古屋は豊橋からすると、県の端から端という感じなので、ちょっとした旅気分(夫は毎日通ってる・・)。

 りえちゃん目的で出かけたけど、『LOVE 30』シリーズには元々興味があったので、生で観られてうれしかった。

  ☆「エアコンな夜」 作:横田理恵 出演:鈴木浩介&西田尚美

  ☆「ピアノ・レッスン」 作:後藤法子 出演:勝村政信&高岡早紀 

  ☆「しゃぼん」 作:藤本有紀 出演:松重豊&ともさかりえ 

 この3幕。

 先々週読んだ、坂本美雨さんのブログの感想がぴったりだったので、勝手にご紹介。

 http://blog.excite.co.jp/miuskmt/11311985/

 どのお話もそれぞれ余韻をのこして終わる。

 役者さんたちが去っていった後、その余韻に包まれ、色々想像したり場面を振り返ったりする。目の前で繰り広げられる舞台に加え、広がっていくその余韻も含めて作品とするのは、なんて素敵だろうと、自分の作品づくりに関しても思った。

 りえちゃんの『しゃぼん』は、コミカルかつエロティックだった。笑いながら、ドキッとするような・・・。松重さんもりえちゃんも、役者さんというのは、どうしてあんな素敵な表情ができるのだろう。

 三本とも舞台だけで終わってしまうのはもったいないようなお話だった。

 高岡早紀さんは同い年なので、デビューの頃から色々見てきたし、西田尚美さんは、ノンノのモデル時代から好きで、学生時代アパートの近くのスーパーでバッタリ会って一人勝手に感激したこともあったので、舞台上のお姿を拝見できてうれしかった。

 りえちゃんも、早紀さんも尚美さんも、今やお母さんなんだよなあとしみじみ思ったりもする。相変わらずキュートで可憐で、さらになんとも言えない色気が漂って、みなさん素敵でした。

 終演後、楽屋袖でりえちゃんと1年ぶりの再会。

 相変わらず可愛かったーー!!集中力の解けたりえちゃんは、本当にふわふわと愛らしい。前回は遠慮したけど、今回は一緒に写真を撮っていただきました。息子たちへのお土産として・・・。横並びで写ったけど「遠近法かっ!」ってくらい、りえちゃん顔小さくて。すっぴんがまた美しくて。これまた多大なる余韻をいただいて帰りました。

 りえちゃんは表に出ているイメージ以上に、真に素敵な人。

 奥が深いし、頭がいいし、感性が豊かで、やわらかながらも鋭くて、りえちゃんからいただくメールには、言葉の選び方など、いつも触発される。

 ゆっくり飲みたいひとだ、と思いながら今は叶わないけど、いつの日かそういう日を迎えられるように、私もがんばっていきたい、と襟を正すような気持ちでした。

 開演前、私は失態を演じ、駅前まで猛ダッシュ&汗だーだーという状態でした。ほんと、スマートに生きられなくてまいるよ(苦笑)。ドトールで買ったカプチーノとジャーマンドッグ手に、鶴舞公園の緑を眺めながら「いい公園だなあ」とのん気に構えてる場合じゃなかった。大森ちゃん、ご心配をおかけしてすみませんでした!

 家に戻り、最近リピートしている『トリドリ。』を聴きながら、色んな顔を持つ、スターという存在に思いを馳せる(りえちゃんと仲良しの椎名林檎ちゃんの映像も最近追っているので余計に・・・)。

 思い出したのは、くらもちふさこのマンガ、『アンコールが3回』のこの場面。

 主人公・二藤ようこの親戚の男の子が、コンサート前に友達の男の子と語ること。

 「みんな『ようこようこ』って大騒ぎしてっけど、おれがいつも会うようこは、ふつーの女だぜ。ふつーのね」 

 「でも ふつーの女は、こんなに人動かすことできないよ。こんなに人集められないよ。

 ここにいる『二藤ようこ』の5文字を頭にきざみこんできた奴らみんなが ここで出会ってこの数を改めて目の当たりにして それぞれ思ってんぜ。二藤ようこは、やっぱ やっぱすげェ『スター』だなって」

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 舞台やコンサートでたくさんの観客を集めるスターというひとたちって、やはりすごいと思う。

 余談ですが、りえちゃんと話している最中、勝村さんが近くをうろちょろしていて(うろちょろって失礼だけど、その言葉がぴったりで)、永遠の男子高校生!という雰囲気を感じました。松重さんの、最近珍しいほどの「大人~」な雰囲気にも驚いたけど、もしかしたらあのお二人は同い年くらいではないか?と思って調べてみたら、バッチリ同じ1963年生まれで、ひそかに笑ってしまった。

 ライヴな舞台というのは、セットやら演出やら、観せ方・魅せ方の上でとても勉強になる。

 編集者さんとタッグを組みながらもほとんどピンの創作である自分とは大きく異なる。

 共同作業に負けないようなものを生み出すことは容易ではないけど(もちろん比較の問題ではないけど)、私もがんばるぞ!という思いを新たにしました。

           

                                         

           

 

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2009.06.26

285 フリルのついた暴力

            
 よくミクシィとかの悩み事相談で、相談者が文章の中で絵文字を多用していたりすると、「絵文字がいっぱいで、本当に悩んでいるのか疑問に思います」とご立腹の様子を露にする人たちがいるけど、私は、そういうの(困っている時においても絵文字を使わずにいられない人)は気にならない。
 だってそれは、自分自身や他者に対するエクスキューズだと思うし、それによって武装せずに(身を守らずに)いられない彼女のことを気の毒に思うから。

 こんなことを思ったのは、今日、スーパーにて「乙女にはフリルが必要なんだな」と感じた瞬間があったから。
 
 買い物をし、レジに並び、店員さん(品の良い50代くらいの女性)がレジを打った。
 カードで会計を済ませ、かごを運ぼうとしたら店員さんが「はっ!」という顔をして、見ると、ふりかけを二つ、打ち忘れていた。
 こんなこと、まったく気にならないのだが、その後店員さんは、申し訳なさそうな顔をしながらも、高音で、「すみませーんup○○円でーすup○○円のお返しでーすupありがとうございましたーnote」と語尾をのばす癖を保ったままで、その「高音&語尾をのばす」乙女ぶりが気に障ってしまった。
 絵文字を多用するのは若者ばかりではなく、女はいくつになっても、乙女にすがろうとする。
 乙女はなんらかのフリルで武装し、身を守ろうとする。

 私はまず、物質としてのフリルというものに対し幼い頃から嫌悪してきて、そういうファッションは大嫌い(注:フリルのファッションが嫌いという意味ではないです。自分がフリルを身に着けることが嫌いということです)。
 そして、精神としてのフリル、わかりやすい例で言えば「社交辞令」も大嫌い。
 タイトルの「フリルのついた暴力」というのは、大好きな岡崎京子のマンガ『pink』に出てくるハルヲくんが言うセリフである。好きでもない女の子がハルヲくんの家で掃除して洗濯して夕食を作って帰った後、こぼれた言葉。

 「どーして女は こーゆーフリルのついたボーリョク平気で使うんだろ?」

 このセリフには、深くうなずいてしまった。
 女が発信することにはフリルのついた暴力が多々含まれている。
 例えば、体調が悪かったり、なにか失敗して、放っておいて欲しい時に、「大丈夫ぅ?~~しようか?それとも、~~しようか?」と過剰に心配するのはフリルのついた暴力だと思う。
 ここで問題なのは、フリルのついた暴力を発している側にとっては、それは迷いのない好意や親切心であり、相手にとって暴力となっていることに気づいていないことである。

 そんなこんなで、女対女(男)の水面下でのたたかいは続いていくのである(笑)。

 私も、無意識のうちに、「フリルのついた暴力」を発しているとは思うけれど、極力気をつけたいです。
 なーんか、まとまりない文面だけど、このままUPシマス。


 今日はまた、チリから一時帰国中のSさんが泊まりに来る(子供たちも楽しみにしている)。今日の晩御飯は肉団子入りのちゃんこ鍋。
 明日はSさんの試験会場に送り迎え。
 あさっては、名古屋。

  
 マイケル・ジャクソンの訃報はびっくりした。
 マイケル・ジャクソン本人に対し、特別な思いはないけれど、マイケル・ジャクソン大好きな男から高校時代、「マイケル・ジャクソンですけど、いずみさんいますか?」という電話をよくもらっていたので(「トム・クルーズですけど」もあったけど、親も慣れっこ)、その男が今どう思っているか気になる。イカれたその男はのちに東大に入り、今、億の金を動かしている(お堅い銀行員時代、ゴルチェのフェイクファーのロングコートで出社し、上司に叱られていた男。樹海をさまよったこともあり、栄枯盛衰という言葉がよく似合う男)。マイケル・ジャクソンから影響を受けたのか、昔、猿を飼っていた。六本木のワンルームで。あの猿がどうなったのか、近々電話してみよう。
 あ、フリルのついた暴力は、関係性の問題。どんな種類の暴力をふるったとしても、壊れない関係もある。

     

           


            
 

               


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2009.06.24

284 いけちゃんとぼく

 『スラムドッグ$ミリオネア』の時も号泣したけど、今回もまた、鼻が詰まり、頭痛がするほど泣いてしまった。帰りにトイレの鏡を見たら、あり得ないほど目が真っ赤だった。

 と書くと、私が何でもかんでも泣いているようだけど、世間様が「号泣」というもので泣けなかったりもするので、決して安っぽいわけではない(と思いたい)。

 『いけちゃんとぼく』 http://www.ikeboku.jp/

 あらすじや結末を書くと、これから漫画を読んだり、映画を観る人にとっておもしろくないので控えるけど、男の子の成長物語であり、深いラブストーリーでもあります。

 最初は、私の背後に座っている年配のご夫婦に対し、勝手に申し訳なさを感じてしまうようなゆるーい展開だったけど、途中から、主人公の男の子の言葉がまるで哲学者の言葉のように響き、最後のほうは、いけちゃんの言葉(声は蒼井優ちゃん)が畳み掛けるようにして泣かせてくれた。

 最近の日本映画の泣かせる風潮は好きではないけど、この映画は、素朴にして深い。尊い。甘くてちょっと物足りないカクテルを飲んでるうちに立ち上がれなくなるほど泥酔してしまった・・・そんな感じの展開で、ほのぼのの中に鋭い牙が封じ込められているような、甘く危険な(←いい意味で)映画だと思いました。

 西原さんとともさかりえちゃんのブログは毎日見ているので、撮影が始まった頃に原作は読み、泣いていた。どんな映画になるのか興味津々だったけど、どちらもそれぞれに、深く心に響く。

 私は西原さんと育ちが近いところがあり、家から海がすぐだったし、ヤンキーはごろごろだったし、夜は本当に闇だったし、夏の草いきれや、ごつごつざらざらした堤防の質感を体験として思い出すから余計に泣けたのかもしれない。

 ただ、

 子供の頃にしか見えないものってあるよね。

 男の子でいる時間って限りがあるよね。

 命って限りがあるよね。

 これらのメッセージは、多くの人に届く、本当に強いものだと思った。うんうん、ぼくたち(わたしたち)もそうだったよね。そして今、息子たち(娘たち)がそういう時を迎えているよね。でもそれは永遠じゃないよね。みんな限りある尊い今、尊い命だよね。

 愛の形や種類は色々あって、いっぱい体験できてる今を幸せに思う。

 子供はどんどん大きくなっていく。目の前の家族と過ごす「今」を大切にしたい。

 そして、「子供を産んでよかった!!」と思った。

 こう書くと気に障る人もいるかもしれないけど、私も、一時は子供を産めないと思っていたけど、子供を産んだおかげで新しく知る感情って本当にたくさんある。

 映画で描かれる人類愛の深さを、体ごと心ごと感じられてうれしかった。

 映画も、りえちゃんも、子役くんたちも素敵だったけど、西原さんって、やっぱり天才だと思う。

           

                  

                    

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